「100年をたどる旅~未来のための近現代史」日米編⑬
戦後になると、映画や雑誌、テレビを通じて、可視化された「豊かさ」がさらに大量に流入する。音楽プロデューサーで評論家の朝妻一郎氏は、1960年代初頭に放映された米ドラマ「陽気なネルソン」の映像が忘れられない。「大きな冷蔵庫の中にある牛乳をごくごく飲む。こっちには冷蔵庫なんてない。アメリカってすげえなって。圧倒された」
日本の食も大きく変化していく。パン、ポテトチップス、チョコレート、ドーナツ、フライドチキン、ハンバーガー……。高カロリー、高脂質の食品が生活に入り込む。ビフテキなどの肉食が、憧れの頂点に君臨した。
冷戦下では、米国は文化を活用したプロパガンダを強めた。53年には「アメリカの物語を世界に伝える」をモットーに文化外交を担う組織・米国広報庁(USIA)が誕生した。
日本に対しては、52年のサンフランシスコ講和条約の発効後には、日本から「最大の貢献」を引き出すための「対日心理戦略計画」をまとめた。そして、全国の主要都市には「アメリカ文化センター」が置かれた。53年10月時点で14の拠点があり、演奏会やレコード鑑賞、英語教室などのほか、テレビやラジオの番組、書籍、映画などを数多く作った。米側の記録では、55年度に放送された番組は延べ1万8千時間にのぼった。映画は無料で利用でき、58年末までに456本制作し、同年に推定6千万人が視聴したという。展覧会も多数開催し、原子力の平和利用をうたう博覧会には263万人が訪れた。
平尾昌晃にザ・ピーナッツ、そしてドリフも 米軍基地からプロへ
米軍基地もまた、文化的な影響力の源泉となった。日本でも、軍人のための娯楽として、日本人のジャズミュージシャンを、高い給料で雇い入れた。
そして、米軍キャンプで演奏…